| 小学生の部 | |||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 大 賞 | 最優秀賞(小4) | 最優秀賞(小5) | 最優秀賞(小6) | ||||||
| 中学生の部 | |||||||||
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| 大 賞 | 最優秀賞(中1) | 最優秀賞(中2) | 最優秀賞(中3) | ||||||
絶めつ寸前のニホンカワウソのシマは、赤ちゃんのころ人間にさらわれて、動物園へつれてこられます。その日から、シマを捜す母カワウソと兄弟たちの旅が始まります。
私が一番心に残ったのは、シマを捜す母カワウソの旅のすごさでした。住みかがなくても、ひどいケガをしても、人間や犬に追いかけられても、あきらめないで一年以上も、シマに会えると信じて希望をもって進んでいったことです。母カワウソがついにシマを見つけ、金あみをやぶろうとする時、私は涙が出そうで、心の中で「ガンバレ、ガンバレ!」と応えんしました。
私はこの中で、作者が一番いいたかったのは、母と子の愛情だったのだと思います。シマを捜す母親、母親に会いたがるシマ、この気持ちが二匹を結びつけたのです。
この本を読むと改めて、命の大切さ、母と子の愛を実感させられます。
私とお母さんも、気持ちがわかる時もありますが、私の気持ちが通じなかったり、お母さんの気持ちが通じなかったりでケンカすることもあります。
よくニュースで親が子を殺してしまったり、子が親を殺したりするのを聞くと、どうしてだかわからなくなります。
動物は、言葉が通じなくても、お互いの愛情を感じとったり、伝え合うことができるのに、なぜ人間には、それができにくいのだろう。動物は、自分の命を守って生きていくことだけで一生けん命だから、親子のつながりが強くなるんだと思います。でも平和な日本は、苦労しなくても生きていけるから、物やお金だけに目がいって、やさしさを忘れかけているのでしょうか。 私はシマを助けたいという大野さんの気持ちがよくわかります。
私は三年前の冬の寒い朝のことを、まるで昨日のことのように覚えています。私と友達は、登校の途中で、捨てられて霜で凍った子犬を二匹見つけました。私達は、その辺にあった箱に子犬を入れてあげましたが、動物でも結婚させれば赤ちゃんが生まれるのに、その大切な命を、古いぬいぐるみのように捨てるなんてひどすぎると思いました。私はその日から、じゅう医さんになって、かわいそうな動物を助けてあげたいと思うようになりました。
もしかしたら、この地球で、一番りっぱに生きていけるのは、動物を殺したり、自然をよごす思い上がった人間より、いっしんに愛ややさしさを受けとろうとする「動物」なのかもしれません。
喜びの声
大賞をとって 武藤 唯
大賞をとったと聞いたとき、天へ昇る感じがするほどうれしかったです。私は去年最優秀賞をとったので、いい文章を書かなくてはいけないと考えて、作文がつまらなくなったことがありました。でも、自分の思ったことを正直に書けばいいと考えたら、また作文が楽しくなって、大賞をとることができました。作文は、自分の本当の気持ちを書くから楽しいんだということが、改めてわかりました。
みるくと大地は、星野牧場の子どもです。二人とも、朝六時に起きるとまず、着がえてからお父さんとお母さんの働いている牛舎に行きます。学校に行くまでの時間、飼っている牛たちに干し草のえさをやる手伝いをするのです。
ぼくは、学校に行く前に家の手伝いをするなんてえらいなぁと思いました。それに、牛の世話だからよごれたりして、いやにならないのかと思いました。でも、みるくは、糞と尿のまじっているにおいが好きだと言います。
ぼくは、
「そんなにおいが好きだなんて信じられない。」と思いました。でも、それは、みるくが自分の名前のもとになったミルク(牛乳)が大好きで、このにおいの中から香りのいいあのミルクが生まれてくるからだとわかりました。だから、牛の世話もいやがらずに出きるんだと思って感心しました。
そして、学校から帰って来るとまた、牛舎で働きます。今度は、糞かき棒という金具のついた棒で、たまっている牛の小便や糞を溝にかき落とす仕事です。こんなきたなくて、大変な仕事を、小学生のみるくと大地は、いやがらずにがんばって手伝うなんて、本当にすごいと思いました。
ぼくの家では、三匹の猫を飼っています。世話は、ほとんどお母さんがしています。牛にくらべたらずいぶん小さいから、そんなに手がかからないと思うけれど、お母さんは、「生き物は、言葉をしゃべらないから、小さくたって育てるのは大変なのよ。」と言います。
だから、牧場の中にいるたくさんの乳牛の世話は大変です。みるくと大地のお父さんやお母さんは、朝から晩まで一日も休まず世話をします。それは、牛が生き物だから、そして、一生けんめい育ててやると消毒しなくても飲める栄養たっぷりの牛乳ができるからです。
みるくと大地は、一生けんめい働いているお父さんやお母さんを見て、なんの役割もなく、意味もなくその場所にいる物は、この世の中にはいないと言う事に気が付きます。そして、大地は、まだたいして仕事のできない自分も、牧場のためにたくさん役に立たなければならないと思います。ぼくから見ると、大地は、今でもじゅう分役に立っていると思えるのに、こんなふうに考えられるなんて本当えらいと思いました。
ぼくは、この本を読んで、みんな生きている物は、だれかの世話になって、そして、だれかのために働いているのだと思いました。ぼくもお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんの世話になって、大きくなれたのだから、今度は、ぼくがみんなのためにできる事をして、役に立てるようにがんばりたいと思いました。
喜びの声
高橋 励
先生から、「最優秀賞になったんだよ、おめでとう」と言ってもらった時、ぼくは、なんだか信じられない気持ちでした。でも、広島の会場で、名前を呼ばれて、
賞状とたてをもらった時は、本当にうれしかったです。
そして、本当にぼくがこんなすごい賞をもらったんだなぁと思いました。本を読むのは大好きなので、これからもどんどん読んで、いっぱい感動したいと思っています。
「小林菜々」さんー何て、私とそっくりなのでしょう。読めば読むほど、だれかが私の事を見ていて、書いたのかと思うほどです。
私は、転校が四回です。生まれてすぐアメリカに行った時、YeS、NOがはっきり言える子だと担任のブラウン先生からも言われていました。でも、日本に帰ってから、ここでは何でもはっきり言うと良くない事だと小さいながらも感じ、ニコニコ笑って、はっきり言わない(周りのふんいきで)子にと、ねこをかぶるようになったのです。
積極的なこと、明るいことなどとてもすてきな事だけれど、何でもかんでもやりたがり屋の人ばかりが国の大半をしめていたら、その国は向上するどころか大混乱になってしまうかもしれません。でも、日本では静かだと鈴木さんのように「根暗」だとこうげきの的になってしまうのです。
私は、こんな事って、とってもおかしい事だと思います。でも、さおりやみほの前に現実に立った時、自分の気持ちをはっきり言えるかどうか 。その点、のぼるは、小さいのにえらいです。最初は、体温計を持って、まだおさない子なのかな、と思っていましたが、なかなかとてもしっかりしているのです。菜々も感心しています。私もこんなのぼるのように、自分の気持ちをはっきり言える勇気を持ちたいです。
ありのままの自分にうそをつくと、人としてどうしようもない事ー父さんの頭がバーコードのみたいな事ーをこうげきしたりして、人としてのねうちまでも決めつけたりする変な人になっていくのです。
その点、最初あまり好きではなかった、斉とうを、菜々ちゃんも見直しているけど、私もそうです。父さんがステテコはいて、ハラマキしたって、「だいじょうぶ。」って言ってくれるのですから。
鈴木さんの言うように、「みんなねこをかぶっている」のかもしれません。私は、ねこどころか、とらの皮をかぶっている気がします。自分が傷つかないようなガードをしているのです。
でも、ねこをかぶり続けていると、かぶっているはずのねこが、体にピッタリはりついてしまってぬぐことができない、という事はとてもおそろしいことです。
では、どうしたらいいかーそれはやはりありのままの自分でいようという決意、あるいは思った通りに行動する勇気が必要だと思います。
菜々は、勇気を持って、ねこの皮を破りました。そのおかげで、父さんがぼうしをかぶらないでも父さんは父さんだと気づいたのです。私は菜々のようにすっぱりぬげるか自信はありませんが、少しずつ勇気を持ってねこの皮をうすくしていきたいと思っています。
喜びの声
岡田 愛
今回、興味があって読んだ本は、どれもうんうんとうなずけるものでした。
自分が本当に思った通りの気持ちを書いただけなのにすごい賞をもらってしまいました。たまたまだと思います。
だけど、このたまたまに感しゃです。ほんとうに、ありがとうございました。
「ちょっと待って。うそでしょう。」君の話を読み初めた時、私は君のまわりでおこること、出てくる全ての生き物達に、
「そんなことあるわけないよ。こんな生き物いるわけないよ。」
と、独り言を言いながら、正直うそっぽくってあきれてしまっていた。「でも待って。」不思議。そう思いながら読んでいくうち、君の話に引き込まれていく自分がいた。君が、しまうまに乗って空中を飛びこえるスピードが、どんどん早まっていくと同じ速さで、君の話に吸いこまれていくように読んでいる自分に気がついた。そんな中で、自分自身完全に君になりきってしまったな・・・と感じた場面があった。それは、「悲しみの川」を渡っている時だ。君はこの時、しまうまをすごく気使っていたね。しまうま君が、おぼれてしまうのではないかという不安を気付かれまいとしながら、一生けん命悲しませまいとして言葉を選んで話していたよね。私も君と全く同じ気持ちだったよ。
「何とか無事で川を渡りきってよ。」
心の中で、しまうまをいたわる気持ちが私の心に生まれました。初めのころ、しまうまはいくら話しができても、馬であり「空を飛ぶだけの道具」にしか思えなかったけど、この場面では、「道具」でも「しまうまという馬」でもなく、同じ仲間。そう、友達の一人のような感覚に変わってきた。そうしたら、その先の話が進むうち、私もいっしょに空を飛んでいる気分で「うそっぽいこと」も全て、現実にあるような感じになっていた。
「笑いの丘」をこえた時には、「笑い合う」という行動を共にすることによって、二人の「きずな」は、強くなったように思えたよ。だから、その後、君がイチョウの木におそわれそうになった時、「照れくさくなるようなこと」でも、君を助けるため、しまうま君は口にすることができたんだよね。私も自分のことを「よく言われた」ような気になって、うれしいような、はずかしいような気分だった。そして自然と心の中で、
「ありがとう。いいやつだね、しまうま君。」と言っていた。
大冒険のすえ、やっと会えたワライカワセミが一言しか話さなくて残念だったけど、私もそれでよかったような気がするよ。
君がいうように、たった一言の方が、思い出に残ると私も思うよ。「一言」でも、貴重な一言だもの。しまうま君との大切な大冒険という思い出がぎっちりつまった一言だもの。
私の日常生活からは、信じられなかった出来事でも、今はどこかで君達のサーカスに出会える日が来る気がしてならないよ。私は今、「現実」の中で生きているけど、ある日突然耳をすますと、あのオルゴールが聞こえてきそうな気分だよ。目の前にはそう、しまうま君に乗った君が回って見えたりしてね。
喜びの声
小泉 今日子
この読書作文を書くのに一番苦労したことは、空想物語であり、現実にありそうな話という感じを、読む人にわかってもらえるように、文で伝えることでした。文で何かを伝えること自体、むずかしいことなので、その何倍も苦労しました。受賞の知らせを聞いた時は大変うれしく思いました。たくさんのことを教えてくれる本に、これからもめぐりあいたいと思います。
「事実は小説よりも奇なり」この言葉はこの本にぴったりだと思いました。自然というのは、どんなに上手につくりだしたお話よりもずっとずっと不思議です。その不思議なことが、どういういきさつでそうなったのかが分かった後でもやっぱり不思議です。
私が一番、「自然て不思議だなぁ」と思ったのは、『消えたノウサギのひみつ』というお話です。この本は、短かいお話がいくつかまとめられて本にしてあります。『消えたノウサギのひみつ』も、その中の一つです。
ある年は、異常にノウサギの数が増える、けれど、その次の年はノウサギはほとんど見られなくなる、という森があります。まず、ここまで読んだ時、不思議なことが2つできました。異常にノウサギの数が増えるのだったら、なぜそのままノウサギは増え続けないのでしょう。それに、ほとんどノウサギが見られない状態になるんだったら、なぜそのまま、絶滅してしまわないのでしょうか。
原因は、木でした。ノウサギが異常に増えた年には、ノウサギの好物の木の新芽はほとんど食べられてしまうので、次の年になると木は新芽に毒を入れるのです。けれど、二、三年たつと、新芽の毒はなくなるのです。だから、ノウサギが絶滅することも、ノウサギの好物の木がなくなってしまうこともないのです。このお話、不思議だと思いませんか。新芽をほとんど食べつくしてしまうノウサギ。ノウサギに食べられまいと新芽に毒を入れる木・・・。
自然は、色々なものとつながって成り立っているということをこのお話で、教えられました。人間だって他の様々な動物の手をかりて生きています。人間も他の動物に手をかさなければいけません。けれど人間は、自然の大きなつながりを見れていないのではないかな、と思います。だから、絶滅する動物がでてくるのではないでしょうか。目の前にいる動物だけを見て、その背後にいる多くの動物や植物には全く気付いていないのではないでしょうか。私が、『人間は、自然のつながりを見れていないのではないか』と思った理由は、身近なところでそういうことがあったからです。
私は、結構海に近い所に住んでいます。小さい頃その海の砂浜で、家族で貝堀りをしました。幼稚園では、たてぼしをしたし、小学校の遠足でも行った、親しみのある海です。 ところが、最近、久しぶりに海へ行ってみると、砂浜はコンクリートで固められ、そのコンクリートは波打ちぎわまで続いていました。私には、目の前の光景が信じられませんでした。貝のいた穴はなくなり、目にうつるのはばかりでした。いったい何があったというのでしょう。
何が理由で、砂浜がコンクリートで固められたのか、私は知りません。けれども私には、このコンクリートが、貝たちよりも必要なものだとは、どうしても思えません。この海の貝がいなくなったら、海の生き物にどう影響するかは、私には分かりません。けれど、この海のどこかできっと、何か異常が発生しているでしょう。こんな小さな砂浜一つ、という程度のものなのでしょうか。たかが貝の一つや二つ、なのでしょうか。それでも、そこで生きているものがいるんです。貝や、貝と手をとりあって生きているものが・・・。貝だけではありません。ヒトデや、クラゲや、海そうや・・・。
テレビでも、住みかをおわれている生き物のことが言われています。
自然は、ドミノと同じです。どこか一つでも倒したりしたら、すべてが台無しです。そして、ドミノを元通りにしようとすると、大変な時間がいります。自然も、ドミノも、くずしてしまうのはとても楽です。けれど、それを元通りにするのは、くずすことの、何十倍も大変なことです。それに、自然は、もう元通りにはできないのかもしれません。この世界から消えてしまった生き物もいるのですから。
人間は、おかしなことをやっていると思いませんか。私の今の一番の不思議は人間のやっていることなのかもしれません。過去はかえられないけれど、未来ならかえていけます。ノウサギたちをはじめ、自然の不思議なつながりを私たちが守り、つくり直していくのは、私たちではないでしょうか。
喜びの声
松川 美和子
その知らせは、台風が過ぎ去るのと同時にやってきました。受話器から聞こえてくる先生の言葉に、右から左へぬけていって、夢見心地でうなずくばかりでした。今まで、読書感想文は苦手で、今回も受賞するなんて考えてもいなかったのです。始めのうちは、いい本に出会えたのにもかかわらず、全然考えがまとまらなかったので、今回も書けないなとあきらめかけていました。けれど、先生にほんとに少しだけアドバイスをしてもらって書きなおしたら、なぜか受賞してしまいました。今年の秋は、一生のうちで、一番すばらしい秋になるかもしれません。
『コミュニケーション』って本当はどんな事だろうと思い調べてみると、
「言葉・文字などによって、たがいに思想・意志などを伝達・交換すること」
だと、いうことがわかりました。私がなぜ、コミュニケーションという言葉を調べたのかというと、『種をまく人』を読んで、本当のコミュニケーションとは一体どんなものなのかと、深く考えさせられたからです。
私には、両親がいて友達もたくさんいます。しかし、自分が満足できるコミュニケーションができていたのでしょうか。
例えば、友達に本当の事をきちんと言えていたのでしょうか。両親に、すべてを話せていたのでしょうか。私は、今まで何人の人と心から本当にコミュニケーションをとってきたのかな、と少しだけ心がさびしい感じがしました。
様々な人種が生活している、アメリカ北東部、クリーヴランド市の貧民街を舞台にしてこの物語は始まります。その貧民街のゴミ置き場の空き地に、あるベトナム人の少女が種をまきました。その少女が六粒のマメの種をまいた事によって、その空き地が、みずみずしい菜園へと変わり始めます。それは、あらゆる年齢、性別人種、境遇の違った人達がその空き地に集まり様々な種をまき、畑を作るようになったからです。種をまく目的や理由は一人一人違いました。しかし、同じ空き地で畑仕事をする事によって、知らない人達とも親しくなれたのです。もちろん、野菜や花などの収穫もありましたが、収穫はそれだけではなかったのです。目に見えないもの、連帯感や仲間という意識を生み出しました。
最初に種をまいたベトナム人のキムは、父親がいませんでした。キムがまだ母親のお腹にいる時に、死んでしまったからです。
キムが種をまいたきっかけは、死んだ父親に自分の存在を知って欲しいという願いからでした。私たっだら、絶対、お父さんは、知らなくても、天国で見守ってくれていると考えてしまいます。でも、私には父がいます。父親がいない環境に育っていないから、キムの気持ちがわからないのかもしれません。植物を育てる事だけでしか自分がここで生きている事を伝えられないからなんとなく種をまいてるキムの姿がさびしそうに思えました。
キムのマメの芽が一人のおばあさんに守られ、それから一人、また一人と、畑を作りにやって来るようになりました。一人ぼっちで孤独を感じている人。人間に恐怖感を持っている人。彼女のために頑張る人。命の大切さを学ぶために無理やりにさせられている人。車いすで来る人。野菜で金もうけをたくらんでいた人。帰る家がなく、泊まりこんでいた人。ただ見ているだけの人。本当にいろいろな人達が空き地にやってきて、畑作りをやったのです。ゴミ置き場は美しい菜園となり、みんなの大切な場所となりました。
もし私も参加できるならば、収穫を期待するのではなく、そこにいる人達とおしゃべりしたり、一緒に遊んだりしたいと思います。そこに行けば、いろんな人と本当のコミュニケーションができそうだからです。
私がこの本から学んだ、本当のコミュニケーションとは、自分が以前に思っていたものとは少し違うものでした。畑に集まった人たちは、畑を一生懸命耕すのではなく楽しみながら耕していた事です。仲間を作って楽しそうに会話をしたりして前までは、人間に恐怖感を持っていた人などが、、人と接する事によって自分自身が少しずつ変わっていけるんだなとつくづく思いました。それだけコミュニケーションは大きい力を持っていたと思いました。みんなの顔が今以上に心の花でたくさんうまってしまうように。人間は、興味やしゅ味、好きな事を見つけると、自分の事が大切に思えてくるように思います。
人は、コミュニケーションだけで性格が変わっていくから。
私のコミュニケーションの結論としては
『言葉・畑仕事などによって、たがいに思想・意志などを伝達・交換すること』
と、いう自分なりの結果がでました。
この本に出会った事を、将来への参考書として、コミュニケーションの輪を広げていきたいと思っています。
喜びの声
岩谷 香寿美
第九回全国読書作文コンクールで最優秀賞を受賞したと、塾長先生から聞いた時、「本当ですか」と信じられない思いでたずねました。時が過つにつれ喜びがこみあげ広島の受賞式は母と一緒に出席しました。賞状を手にする時とても緊張して、ドキドキしました。 その時記念写真を撮っていただいてとても嬉しかったです。来年は大賞を受賞できるように頑張りたいと思います。
ネズミのポピーが、みんなからおそれられているミミズクのオカックスを相手に大活躍する冒険物語。この物語は、私に生きる力を与えてくれました。それは、勇気をもって生きていくことこそ、幸せにつながるんだということです。勇気を出すには、何ごとに対しても自分で責任をとろうと考えていなければなりません。そして、一人ではとてもできないことも、まわりを愛し、まわりから愛されるからこそ、勇気をもって立ち向かっていくことができるのです。
丸パンの丘にいた時、ポピーたちはオカックスにおそわれました。ポピーは危機一髪のところで救われたものの、恋人のラグウィードは殺されてしまいました。しかし、ポピーは、彼を亡くした悲しみを勇気に変えました。彼への愛、仲間を守らねばならない責任感がポピーに勇気を与えたのです。オカックスの正体をつきとめようとする勇気を与えたのです。死と隣合わせ、悲惨な環境であっても一族と共に生きていくためには、死をも望むかのような勇気ある行動が必要なのです。いつ、どこで殺されるかもしれない環境で一生を過ごさなくてはいけないなんて耐えがたいにちがいありません。そんな厳しさの中だからこそ、ポピーには勇気ある精神力がついていくのでしょう。もちろん恋人の愛の象徴であるイヤリングも彼女をはげましてくれます。とにかく、まず、自分の目で見て、自分の頭で考えようとするポピーを私は、とても見習うべきだと思います。
ポピーほどではないにしても、私にもつらいことがありました。去年、中学校に入学してまもなく、私はある男の子にいやがらせをされました。面と向かって悪口を言う。私のカバンをふり回したあげく、仲間にパスをしてなかなか返してくれなかったり、待ちぶせして、追いかけてきたりもしました。そんなことが半年以上も続き、私はこわいやら、くやしいやらで涙することが多くありました。家族にも、先生にも相談しましたが、その子のいやがらせは続きました。私は、おくびょうで、彼に対して勇気をもって立ち向かうことができなかったのです。そんな私だから、その子は余計、ねらってきたのかもしれません。こわさばかり先だち、自分を見失っていたようです。自分で、何を考えたらよいかわからずにいました。そんな時、私がもっと自分を見つめることができ、自分でもっとよく考えることができていたなら、彼に対して、毅然と勇気をもって対していたら、彼の私に対するいやがらせはなくなっていたのかもしれません。彼は、私のことだけでなく、他にもいろいろなことがあって、学校の指導により、転校していきました。だから、今の私は平穏です。しかし、いつ、また同じようなことがあるかもしれません。しかし、私はポピーを知りました。今度、そんなことがあっても、なんとかやっていけそうな気がします。少くとも、勇気をもって、立ち向かっていこうと決心しています。
私のまわりには、私のことを心配してくれる友人がいます。父も母も姉も妹も。そして信頼できる先生がいます。まわりから愛されている私は、ポピーのように勇気をもって、困難に立ち向かっていけるはずです。以前の私は、先生や家族に頼ってばかりいました。自分の困難なのに、その解決を、他人に任せようとばかり考えていました。自分の困難なのだから、責任をもって立ち向かうべきなのです。まわりから愛され、自分に責任をもつという心構えが勇気を与えてくれるはずです。
学校の中でだけでなく、社会にはもっと強いこわいオカックスがいるにちがいありません。私たちは、そのオカックスに対し、勇気をもって立ち向かわなければなりません。そうでなければ、平穏で、愛に満ちた生活を取りもどすことがいつまでたってもできません。オカックスがなぜ私たちに立ちはだかるのかを知ることも大切です。正体をあばかねば、対策のたてようがないからです。正体をあばくことができるように、私たちは考える力を身につけねばなりません。そのためにも、ますます勉学にはげみ、自分を鍛えるべきです。どんなオカックスに対しても、立ち向かうことのできる勇気をもったポピーになれるように、私は努力しようと決心しました。生きる力を求めて。
喜びの声
藪内 あすか
一冊の本との出会い│それは私の心をとても成長させてくれました。いじめられていた時の苦しみが、ポピーに勇気づけられ、とけていくようでした。そして作文を書くと、自分の考えや気持ちがとても整理され確かになりました。そのうえ、最優秀賞だなんて、信じられないほどうれしく思います。これからも、たくさんの本を読み、文に表し、自分を確かで強くしていきたいものです。
私がこの素晴らしい人々と出会えたそもそものきっかけは、役所に勤めている友人からの話でした。
「前に、生ゴミを持って乗り込んできた女の人がいてね」
私は彼にその話を聞いているうちに、だんだんその開拓者達に興味が湧いてきたのです。次の日曜日に、早速車で友人に教えてもらった場所に行ってみました。
車を降りて一歩一歩近づいていくごとに、フェンスの向こうで仕事をしている人の顔がはっきりしていくと、私の心臓は高鳴っていきました。土に向かう人々は汗をぬぐいながら(この時はまだそんなにも打ち解けてはいませんでしたが)それでも心底楽しそうでした。この本の中でもサムが言っていましたが、まさにパラダイスという言葉がぴったりだと思いました。 私は、次の日に編集長と掛け合って次の本は彼等を追う事に決めました。最初は編集長も真面目に取り合ってはくれませんでしたが、街の新聞に小さく畑の記事が載り、それについて多くの問い合わせが殺到したということを聞いて、渋々承諾してくれたのでした。
初めは彼等の話を元にして物語を書こうと思っていましたが、インタビューをそのまま載せるという形にしました。彼等の話を聞くうちに、彼等全てが主役であり、彼等全てに物語があるということが分かってきたからです。私は本の取材を重ねるうちに、いつの間にか畑の住人の一員となっていました。
フローレンスとフェンスにもたれかかりながら時がたつのも忘れてどっぷりと話し込み、後でレコーダーの電源を入れ忘れていた事に気付いて呆然となった事もありましたし、取材などそってのけでキムのライマメの害虫とりに熱中していた事もありました。
ギブストリートにあるあの畑の中では、国境も、肌の色も、言葉すらも越えてしまう何かがありました。
私は、この本を通してゴミ公害だとか、人種差別の問題だとかを投げかけたいわけではありませんし、諭したいわけでもありません。ただ、畑にいる時に感じた、どこか懐かしいような、ふと泣きたくなるようなあの感じを、少しでも多くの人に伝えたかったのです。周りをビルに囲まれた、それでも自然そのものだと思えるあの畑を、むせ返るような大地の匂いを、そこに根付く植物を、そして笑顔を湛えた人々を、形として残しておきたかったのです。
私は初めて畑と、そこに生きる人々に出会った時、なぜだかふと自分はここで生まれたのだと思いました。そしてそれに引き摺られるように、子どもの頃の自分を思い出しました。あの頃は、どんな事でもできる気がしていました。何にもとらわれず、しっかりと前だけを見つめれば高く、高くとべると、大きな世界を包み込める程、自分は広がり続けると、そう思っていたのです。まるで何かを疑う事が罪だとでもいうように、ただまっすぐに走っていました。何よりも自分を、そして自分の可能性を信じていたのでしょう。
しかし、成長するにつれ、仕事も忙しくなりあの頃の純粋だった気持ちを忘れていきました。忙しいなどと理由をつけ、自分に言い訳ばかりしてきたように思います。
私達が畑で育てていたのは植物だけではありません。私達はあの場所で自分を耕し、種をまき、育てていったのだと思います。私の中にあるこの種が実る時、おそらく私はもっと自分を好きになれることでしょう。
私はギブストリートの畑と、そこに生きる人々に出会えて、本当に幸せだと思っています。
最後に、この本の制作にあたりお世話になった方々と、快く取材を引き受けて下さった同志達に深く感謝いたします。
世界中の、親愛なる
シードフォークスに捧ぐ
ポール・フライシュマン
喜びの声
村本 亜美
畑という、ごくありふれたものに自分を見いだすことが出来たギブストリートの人々が、素晴らしいと思う反面少しうらやましくもあります。私自身、自分の事など何一つとして分からないというのが現状ですので、先ずは私にとっての畑を探そうと思っています。
こんな私の拙い文章に目を通して頂き、あまつさえ賞まで頂いてしまって誠に恐縮ではありますが、光栄に思います。お世話になった先生方にも深くお礼を申し上げます。