| 小学生の部 | |||||||||
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| 大 賞 | 最優秀賞(小4) | 最優秀賞(小5) | 最優秀賞(小6) | ||||||
| 中学生の部 | |||||||||
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| 大 賞 | 最優秀賞(中1) | 最優秀賞(中2) | 最優秀賞(中3) | ||||||
| 小学生の部・大賞
私は私
片山 静香 「あの世って、どこにあるん」
お盆で、おばあちゃんのお墓参りをした時、おじいちゃんにたずねたんよ。そしたら、「そうじゃな、人間の心の中にあるんじゃろうなぁ。亡くなった人が、今、何してるんじゃろうかと思い出してあげる時、あの世のことを考えとること同じなんじゃからなぁ」と、こたえてくれたよ。むずかしいな。「私な、宇宙の果てにあるんかと思うとった」と返事したら、お母さんが、「スペースシャトルで、ビュンと行んかな」と笑った。心の中、か。じゃから、いつでも思い出せるし、イメージで合えるんじゃな。
私、物語の百十四ページが過ぎるまで、真秀と真澄は、一卵性双生児で、元気に島田酒店の看板娘をやってるって信じてた。
でも、本当は、真澄は、入学式の三日前に真秀の投げたボールを取ろうとして車にはねられて亡くなってしまっていたんだね。耳から、赤黒い血をひとすじ、路面に流して。
私は、すっかりだまされていたよ。というより、真澄の二役を見抜けないくらいに、真秀が真澄になったり、真秀に戻ったりすることに、あ然としたよ。真秀は、きっと真澄がはねられたのは、自分の投げたボールのコントロールが悪かったからと責任を感じているんだね。だから、ずっと二人分を行きたいんだね。けれど、それって、本心なのかな。
おとうの酒飲み仲間で、小説を書いている坂下さんが、「自分の人生の主人公は自分で他人の人生の主人公にはけっしてなれない」とつぶやいた言葉が、頭を痛くさせたよね。
私も、あんな人になりたいなぁって、あこがれる人はいるよ。テレビに出てくる女の子や、何でもハキハキと意見が言えたり、積極的な人。私には、まぶしいくらいなんよ。
去年、放送委員をして、マイクの声がふるえたり、ドキドキして苦しいばかりじゃった。そのたびに、自分が歯がゆくて、ちっぽけで役立たずに思えてしかたなかったんよ。努力すれば、堂々とした人になれるかもしれんしまねをすればいいのかもしれんけど、私は、「あんたは、物静かで優しいところがええ」と、他人から言われるほうがほっとするんよ。
一番自分らしいを思えるからな。
自信のある、好きな部分でもあるんじゃ。
坂下さんが、「自分の人生のかけがえのないもの、他人の人生も自分と同じようにかけがえのないものであるということ。時として人はこのどちらもわすれてしまうことがあります。」と言った時、何だか、胸にモヤモヤしていたものがスッと消えたよ。不思議と。
「そうじゃな。私は私でええんじゃ」ってな。イライラした気持ちがなくなった。
真秀、これからは自分の物語の主人公として生きるんだね。私も、自分だけの物語を作っていくよ。心の中のあの世で、真秀は、真澄が、私は、おばあちゃんが見守っていてくれると信じて、お互い胸を張って生きようや。
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小学生の部・最優秀賞(小4)
「みつる」と「満」
〜「大空のきず」をよんで〜 重光 真衣 大空のきずとは何だろう。心のきずかもしれない。大空には、たくさんの心のきずがあるのかもしれない。主人公のみつるが、けんかした時の心のきずかな。それとも、後かいしたときのきずかな。二人の「阿部満」一人は主人公で小学六年生の男の子。もう一人は、マラソンランナー。この二人の共通点は名前だけ。それと心の中に大きな後かいを持っていることです。マラソンランナーの阿部満は、自分のあやまちを後かいしたその時から、走り続けている。そんな満をみつめるみつるは、気が付きました。
「たとえうまくかくし通すことが出来たとしてもそれは他人だけのこと。自分自身をごまかし続けることは、出来ない。いつばれるかとはらはらしつづけるのだ。そんなのいやだ。ならばどうするか。」
私は、そんなみつるの心の声に、「がんばれ。」「勇気を出して!」と思った。でも、みつるは、友達に告白することも、あやまることもしなかった。
私は、がっかりした。みつるは、なんでも人のせいにする。私にもこういうことはよくある。「だれのせいだ。私は悪くない。」と思ったりしてしまう。そんな時はいつも一人ぼっちになってしまう。みつるもそうだ。どんどん悪いことが積み重なっていく。せめこまれていく。なげやりになっていく。
私は、本当はやさしい男の子なのに、ちょっとしたあやまちで、何もかもうまくいかなくなってしまうのは、かわいそうな気もした。だけど、自分で変わろうとしないところには、腹が立ってきた。そんなみつるを救ったのは満だった。何かをしたわけではない。ただ、走り続けただけだ。みつるはよろよろと走る満から、目がはなせなかった。
「まだすべてが終わったわけじゃないんだ。」
そう気付くと、みつるは、
「がんばれー。」
と声えんした。
みつるにとって今は、大空のきずあとに見える。飛行機雲は満に、「がんばれ。」と声えんしたその日から新しい自分の誕生日のしるしになったのではないかと思った。
私は、みつるを見て人をせめるのではなく、自分をみつめることを教えられた。また、満を見て決心したことをつらぬき通すことのすばらしさを知りました。
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小学生の部・最優秀賞(小5)
「もうひとりのぼくも、ぼく」を読んで
山上 和葉 自分が二人の自分に分けられる。聞いただけでもゾッとする言葉。二人に分けられると、自分にあったものが消えていき、自分になかったものがめばえはじめ、自分が本当の自分じゃなくなっていくのではないだろうか。
ぐずぐずする自分と、さっさとする自分。私もさっさとできる自分になれるといいなぁ、と思う。けれど、人間はそううまくは出来ていない。ぐずぐずする所もあり、さっさとする所もある。悪い所もあり、良い所もある。それらがすべてあつまったのが自分、つまり私なのだ。
さっさとするかずとは、自分が本当にしたいことが分からなくて、手足がふるえていた。自分が二人に分かれて、なにかわすれた気になっていたからだろう。
一方、ぐずぐずするかずとが小さくなり、ヤマモモの根もとのあなのおばばさまの家でいろいろな事を学んだ。いつも手伝いをしなくても、お母さんが、料理を作ってくれたりした。また、ねたあとのふとんもあげたことがなかった。けれど、おばばさまの家ではきちんと自分のことをするようになっていった。それは、ヤマモモの木がかずとのぼんやりや、ぐずぐずをすいとってくれたからだろう。
この本を読んで私は、自分が分けられてみたいような気もするし、分けられることで、自分が本当の自分でなくなるような気もする。それは、二人の自分が私の中にいて、二人の自分が私の中でぶつかりあっているからではないだろうか。
自分の中に二人の自分がいることで、自分が自分であると感じられる。その気持ちが、今の私達、人間なのだ。
みわけ山のヤマモモの木の根もとのあたをのぞいてみると、目に見えないけれど、小さなおばばさまの声が、聞こえてくるような気が私にはする。だから、私は一度でいいからおばばさまにあいたい。
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小学生の部・最優秀賞(小6)
「生きている」ことと「生きる」こと
〜「ふたご前線」を読んで〜
重光 あさみ 「生きている」ことと「生きる」ことの違いなんて、改めて考えたことなどなかった。真秀と真澄。ふたごの女の子。ふたごは、二人で一人分と見られることが多いらしい。でも、二人の両親は「ふたごの女の子」としては育てなかった。真秀は真秀で真澄は真澄であることを大切にされた。私はうらやましく思った。私は三姉妹の長女です。ある時は「お姉ちゃんなのだから」と言われ、またある時は、妹や友達やあげくのはてには、知りあいの人の子供とかにまで比かくされ、いやな思いをすることがよくあるからです。
比べられるだけでもいやなものなのに、まして、二人で一人なんてみられるのはたまらなく不愉快だと思う。だからすてきな両親だと思った。
あたたかくて幸せで、ちょっぴりコミカルな感じの家庭だと思った。だから、真実を知った時、私はびっくりした。主人公の二人は真秀が一人で真澄の分も演じていたのだ。真澄は事故で死んでいたのだ。私にはそんなことは考えられないし、出来ないと思った。
自分だけが年をとっていき、妹はその年のまま。これからの人生が妹は、今までだけ。時間が止まってしまった。さみしくて、くやしくて落ち込んでしまう。私なら落ち込んだ先に何が見えるか、想像すら出来ない。でも、真秀は落ち込んだままではない。一緒に生きようとした。すごいと思う。
真秀が真澄になってしゃべっているが、それは真秀が思ったことで真澄が思ったことではない。他人の人生を自分で作るものではないと感じた。
ある日、お父さんが言った。「一人二役をするのは、もう、やめにしたらどないやろ。」おばあちゃんは、死んだあと手紙を残してくれた。「どうぞ、自分の身のたけぶんを生きてください。」坂下さんは、「自分の人生は、自分が主人公。」だと言い、友達の清水君は、「自分のことを、うちて言っている時より、わたして言っている時のおまえの方がいい。」と言った。みんなは、真秀が真秀だけでいてほしいのだと思う。それは、自分の力で生きていかなければならない。真澄の分まで生きていると、自分で生きていく力がだせないと思ったからではないかと思う。
もう一つ、坂下さんが桃太郎の話を「おに」を主人公にして物語を考えるとどうなるかと言った。不思議だ。桃太郎が正義と考えられなくなった。どちらを主人公にするかで違ってくる。「おに」を主人公にすれば、桃太郎ではなくなってしまう。真秀の人生も真澄を主人公にしたら真秀ではなくなってしまうと思った。
私は、私の人生の主人公なのだ。そんな風に思いはじめると、「生きている」から「生きる」「どう生きようか」なんて自分に問いかけてみたりしている。答えはまだない。だけど、なんてったって主人公なのだ。はりきってハッピーエンドにしてみたい!
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中学生の部・大賞
「ルーム・ルーム」を読んで
能井 萌 もし、この世に神様がいて、願い事を一つかなえてくれるとしたら、私は何を望むだろう。リヴィ、あなたは何を望みますか。
主人公のリヴィはどこにでもいるような、おちゃめで、おもしろくて、それでいてちょっぴり淋しがりやの少女だ。最愛の母と二人で暮らしていて、友達のような親子関係を保ちながら、裕福ではないけれど、幸せな毎日を送っていた。そんなリヴィを待っていたのは母の病気、そしてあまりに悲しい母の死だった。奈落の底に落ち込んでしまったリヴィ。やがて母の親友、ジェーンに引きとられ知らない土地で、知らない人々に囲まれながら、家族や幸せについて考え、生きていくことについて学んでいく。しかし、リヴィは母の死を現実として受け止めることができないでいた。いえ、受け止めたくなかったのが本心かもしれない。何故なら、受け止めた後の自分がどうなっていくのか、考えるだけでも怖かったのかもしれない。だからいつも心の中で母アルーシアに呼びかけ、話しかけていたのだろう。小学五年生で人生最大の悲しみに遭遇するなんて、そして一人ぼっちになるなんて。もし私が今その立場になったらどうするだろう。やっぱり悲しいことは信じたくないし、逃げだしたい気持ちでいたたまれないと思う。
日々の私生活の中では、両親に対しても「どうして私の気持ちをわかってくれないの」とか「もっと違った親だったら私も違うのに」などと自分に対して反省することなく、両親を悪く思ってしまうほどわがままが出ることがある。でもそれはぜいたくの一言につきると思う。両親がいるから今の私があるのに・・・・・・。何故か両親に対して素直になれないときがある。一人で大きくなってきたようなことを言った後、口には出せないけれど、心の中でごめんなさいを言っている。家族っていうものはそんな関係なのかもしれない。口に出さなくても解り合えるというか、ただ心の中をさらけだすことは、今以上に家族どうしをより太い絆で結びつけるためには必要なことだと思う。私の兄は、思春期、反抗期の真っ只中、両親ともあまり話すこともなくなり、私から見ても何を考えているのかわからないときがあった。いろんなもめ事が起きた。そして同時に兄の悩む姿を見た。それぞれが思い悩んだ日々、お互いが心を開かない限り、交わることのない思いが家族の中を駆け巡っていた。心を固く鎖でしばりつけていた兄は、そう簡単にその心をときほぐすことはできなかった。でも、友人達は、きっと兄をいちばん理解していたのだろう。友達との関わりにより、少しずつ兄が変わってきたのが感じられた。両親も心をさらけだし、真正面から兄と対峙した。そして、兄がいろいろなつらいことを乗り越えた時、違った空気が家の中に流れるようになった。うまく言えないけど、兄が家族の中に戻ってきた。他の人と比べればすごく遠回りをしているけど、家族ってどれだけわかり合えて、どれだけお互いが大切に思えるか、それがいちばん大事なことだと思える。
リヴィもチャーリと出会ったことによって少しずつ心の鎖をほどいていくきっかけとなった。同じような境遇のチャーリはリヴィより少し大人のように思えた。自分一人が全世界の不幸を一人で背おっているように感じていたリヴィは、自分で自分の心にかぎをかけてしまっていた。でもチャーリーは違っていた。「新しい人との出会いをどう受け止めるか。自分が少しゆずって心の中に新しい人のためのスペースを作る。そして誰かがいなくなったら、あいたスペースを埋めなきゃいけない」そう、いつまでも過去を振り返らなかったのだ。自分の後には明日はありえない。時が流れているのだから、過去の思い出だけで生きていくことはできないと思う。
ジェーシーのくるり屋、大事にしていたはた織り機(ルーム・ルーム)のこと。いろいろな人と接することや、いろんなでき事の中でリヴィは少しずつ心の鎖を断ち切っていた。そして、いつの間にか母の死を自分なりに受け止めていた。それはきっとリヴィをとりまく人々の優しさがリヴィの心に響いてリヴィを変えていったに違いない。リヴィ、確かにあなたの母の死は不幸だったかもしれない。だけど、あなたが生きていることによって幸せになる人がきっといるはず。ジェーシーのように・・・。人は一人では生きていけない。自分に関わる人々とどう接していくか―自分のこれからの人生にも大きく影響してくると思う。でも怖がることなく、毎日を大切に過ごし、前に前に向かって歩んで行こうと思う。そしていつの日か、リヴィのように両親との別れもやってくるだろう。リヴィ、あなたにもう一度会える時、その時はもっとあなたのことが理解できそうな気がする。
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中学生の部・最優秀賞(中1)
「海からのメッセージ」を読んで 岡 辰也 「害獣」と「ペット」、各個人によって、どう位置づけらるかで同じ生き物でも、その運命は全く違う。
この本の筆者、フィオナのアザラシ達への想いはどちらなのだろう。それは「ペット」としての想いではなかっただろうか。簡単に「ペット」と言ってしまうことは、すごく失礼なことかもしれないが、僕はそう
感じた。
筆者が暮らす美しい島の周辺の海も、人間の仕業によって徐々に汚染されていく。筆者は加害者であるという苦しみを背負いながらも、人間が汚染した海で傷ついたり病気になったアザラシ達を保護していく。月日が経ち元のからだに戻れば、また海へ帰す。その時、筆者はアザラシを海に帰したくないという気持ちで一杯になる。特定のある一匹のアザラシへの愛情・・・。しかし、彼女は野生動物を保護していく一人の活動家として、自分の想いをかたちにしているところは、僕はすごく尊敬している。
では、漁業関係者にとってはどう位置づけされていたのかというと、もちろん「害獣」であった。漁業被害をもたらすアザラシ達は一匹残らずいなくなればいいとさえ思っているかもしれない。自分達の利益のために野生動物を迫害している。しかし、イギリスでは被害を受けている漁民と保護団体、そして専門家が話し合う制度が確立されており、アザラシをむやみやたらに殺すことはできないようになっているそうだ。それでも、漁業被害が大きい場合は「間引き」がおこなわれる。これは害獣退治とは発想がまったく違う、人間とアザラシが共存するための、生息数のコントロールなのだという。これも食物連鎖のくさりの一部だというのだろうか。
結局、全ての人間は勝手だ。この地球上の陸を、我々が住む土地とし、それ以外を海としたのは、我々人間である。海の環境、そして生き物を我々の都合で支配しようとしている。もし、アザラシ達がこの地球上の支配者なら、我々人間は、そして大地はどうなるだろう。現在の海と同じように、油が流され、工業廃棄物でいっぱいになり、人や他の生物も住めなくなってしまうだろう。常に逆の立場でものを真剣に考えていないから、今、私達は海を平気で汚すことができるのだろう。例えば、ニュースでもよく報道されている、大型タンカーの事故。タンカーからは、かなりの量の油が流出している。しかもその後の処置はされず、本当に無責任なものである。それどころか何度も何度も同じあやまちを繰り返している。自分達に被害がなければいいと言う考えからなのだろうか。
近年では、増加していく環境問題について考える機会が多く設けられるようになったが、一体誰が、活動家、実践家をとして実際に、行動しているのだろうか。誰もが自然を守ろう、大切にしようと口では言っている。しかし、そのほとんどの人が、有言不実行なのではないかと思う。まだ充分に使える紙を破って捨てたり、環境に良くないと知っていながら、私達は、洗うという全ての作業の中で、洗剤を多量に使用している。車でしか移動できなくなった大人達や、エアコンのきいた部屋にばかりいたがる子供達。みんな地球の悲鳴を聞かず、また聞こえていながらも、知らぬ顔で、通している。
人間は一体いつまでこうして、そ知らぬ顔で、自分とは無関係なんだという気持ちで、見て見ぬふりをしていくのだろうか。様々な環境問題の実態を知りながら、自分は加害者ではなく、他の誰かがやっていることだと思っている人が多いのではないだろうか。実際のところこの本を読むまでは、山にゴミを捨てている人なども見すごして、間接的に環境に害を与えることを平気でしていた。その行為自体が、山や、海などを汚すことなど、何も頭の中に入れていなかった。しかし、この本を読んで、様々な立場の人々を知った。地球上で一番だと人間は思っているから、ある時は、邪魔だと殺し、またある時は、かわいそうだからという思いから保護したり、かわいいというだけでペットとして飼ったりする。しかし、事情が変わって都合が悪くなったり邪魔になったりすると捨ててしまう。じゃあ、これからそういう人と同じ人間である僕が何をすればいいか。一つ目は、将来のことを想い、正しいこととは何か、また楽しい未来をこわすようになることとは何かを判断できるようになろう。二つ目は、未来のため、地球のため、生命のため、勇気を出して小さなことから少しずつ地球のためになることをやっていこう。そして、今よりも、すっと自然豊な星になればと思う。
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| 中学生の部・最優秀賞(中2)
ルーム・ルームを読んで 山田 やよい 私は、リビィの母親のいない悲しい気持ちが少しだけ分かるような気がします。
その理由は、リビィと違うけれど、私にも、母親がいないからです。
私が四歳の時、母が、
「仕事に行ってくるから。」
と言って、兄と私の二人を、同じマンションに住む私達の友達の家にあずけました。その日の夜は、友達の家で泊まりました。
次の日の朝は、祖母が私達を迎えに来ました。その日から、母は帰って来ませんでした。
何日かたってから、祖母は、私達二人に、
「もう、お母さんは帰って来ない。お父さんとお母さんは離婚したんだよ。」
って聞かされました。悲しかったけれど、不思議と涙は出ませんでした。
だから、リビィの気持ちが少しだけ、分かるような気がしたのです。
私の知り合いにも、お母さんを亡くされた人がいます。その子のお母さんは、その子がけっこう大きくなっていた時に亡くなってしまいました。だから、いろいろな思い出があるでしょう。彼女は、何日も泣いていたようでした。しかし、彼女は強かった。私の前では、あまり泣きませんでした。いつも、明るくふるまっていましたが、ときどき、とても、悲しそうで、寂しそうな顔をしていました。
でも、その時の私は、何も言ってあげられませんでした。しかし、今は、その人にとって、心強い言葉をかけてあげられそうな気がします。そして、もうその人が、悲しそうな顔をするようなことがなくなればいいと思います。
また、私の知っている人の中には、父親がいない人もいます。父親がいないのも、母親と同じように、悲しいと思います。同じ家族だからです。家族が一人でも欠けると、大変つらいと思います。家族だけではなくても、親しくしていた友達、親せきの人、だれが亡くなったり、いなくなったりしても、悲しくて、つらいと思います。
けれど、いつまでも悲しんでいるのじゃなくて、その現実を受けとめられる、強い心が必要だと思います。すぐには、無理でも、少しずつ、少しずつ現実を受けとめられる人は、すごく、すばらしい人だと思います。
次に、私がこの本を読んで思ったことは、『人』です。
人は、だれかに支えられないと、生きてはいけないと思います。
私の母がいなくなって、悲しかったけれど、寂しいとは、思いませんでした。それは父がいるし、祖母、祖父、そして、兄がいるからです。だから、少しも、寂しいと感じたことはありませんでした。
私の知り合いの子だって、きっとそうでしょう。彼女には、お父さんも、お姉ちゃんもいましたし、親せきの人がたまに、来ていたみたいでした。
父親がいない友達だって、そのほかにも、家族がいない人だって寂しくないだろうと思います。
だれも身内がいない人だって、どこかに、引き取られて、親切にしてもらうだろうし、引き取ってくれる人がいなくても、施設に行くでしょう。そして、そこで、友達を作ればいいと思います。
もし、私に身内がいなくて、引き取ってくれる人もいなく、施設で暮らしているとしたら、きっと、一人でも友達を作っていると思います。そうしなくては、一人だと、孤独や、寂しさ、悲しさ全てに、押しつぶされるような気がして、怖いからです。それに、友達に自分のこと、自分に友達のことをお互いに知り合い、やさしくされて、やさしくして、相手のことを気づかい合って、ささえ合ってはじめて現実を受けとめられるような人になると思っています。
次に、思ったことは『責任』です。
リビィは機のことを自分のことを自分のせいだと、責任を感じています。
今の人達は、もう自分だけでは、責任がとれないようなことをしています。
テレビでよく殺人とか犯罪とかを聞いていますが、もう殺人なんかは、責任を通りこしています。自分で責任をもてないような行動をとる人は間違っていると思います。人の命を奪いとるということは、その人の人生そのものを奪いとるということだから、責任とか、そういう問題じゃなくなってきていることが今の時代多くなってきています。
私は、自分の責任もとれないような行動は、絶対にやめるべきだと思うし、絶対に自分もやらないと思っています。
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中学生の部・最優秀賞(中3)
命―絶えることのない絆
樋渡 未佳
リビィの心の中に、大きな、大きな穴があいてしまった。自由で明るくて、おしゃれで、そして大好きなお母さん、アルシーアが亡くなってしまったから。リビィは、アルシーアに宛てて手紙を書き始める。心の中に、独り言のように、いや、自分の心の中の大きな穴を埋めるみたいに、そして、母の死を受け止めていくために。
リビィにお父さんはいない。家族はお母さんだけだった。だから、アルシーアは母であり、父であり、姉であり、友だった。リビィはその全てを死に奪われた。リビィを残して死んでいかなければならなかったアルシーアの悲痛な気持ちを考えるとつらくなるが、全てを失ったリビィの心の傷はどれ程のものか、想像するだけでゾッとする。
泣ける間は、まだ悲しみはいやされるのだと思う。いやしきれない程の深い悲しみは、人の心を凍りつかせてしまう。「生まれたら、必ず死ぬ」ということは、頭ではわかっていても、自分の周りで起こって欲しくないものだ。
今年七月、私は曾祖母を亡くした。私にとって初めて経験する身内の死だった。遠くに離れて住んでいたので、会う機会は少なかったが、会うと目を細めて、嬉しそうに話す姿を今も温かく思い出す。曾祖母の死を聞いた時、私は泣けなかった。具合が悪いと聞いていたし、九十四歳という高齢であったし、いつか来る日だと漠然と予測はできた。だが、「死」という言葉はあまりにも突然だった。私には理解できなかった。呆然としていた。その後、お葬式がすむまで、私は何もできなかった。遠くの方で孤立している感じだった。知らないところで物事が勝手に進んでいく感じだった。リビィもきっと同じだっただろう。リビィの方がずっとつらかったはずだけど。母の死までの場面を、リビィは淡々と表現する。まるで他人事のように。悲しみがあまりに深いと、受け止められずに却って冷静に見えてしまうのだ。そのことが私には、曾祖母の死と重なって余計に重く感じられた。
その後も私は、学校の授業や行事に追われ、何となく毎日を過ごしていた。一見何の変哲もなく、それでもどこか淋しい風が吹くのを感じながら、でも何だかわからずに、日々は過ぎていった。ところが、曾祖母の死より一ヶ月後、お隣りのおばあちゃんが、突然亡くなった。毎朝登校時に、道で出会うだけだったけれど、気さくなおばあちゃんだった。私は泣いた。今までの心の穴が埋められていく気がした。泣いたのではない、泣けたのだ。涙がなかなか止まらず、その後も些細なことで涙があふれるようになった。もうすぐ曾祖母の四十九日がくる。私はまた泣くだろう。やっと曾祖母の死を受け止められるのかもしれない。
リビィは、周りの人達の温かい心遣いと、自分自身を見つめる心の強さで、心の穴を埋めていった。アルシーアの最期の言葉である「どんなことがあっても、あなたは生きていくのよ。」その言葉を支えに。そして、ジェシーが、ルーム・ルームの機を犠牲にしてまでリビィを大切に思ってくれたという絆の強さが、リビィを守った。リビィもアルシーアに語りかけていくことで、自分を取り戻していった、ジェシーを支えにして。多くの人の絆が結び合って、母の死を乗りこえていく力が生まれた。リビィは、母の死という極限の悲しみに出会ってしまったけれど、アルシーアはリビィに「絆」という命の輝きを教えてくれた。私は、かけがえのない命の輝きを、今これ程いとしいと思ったことはない。リビィの命にめぐり合った時、私も人の死に直面した。この出会いは私にとって決して簡単に乗り越えられる壁ではない。生きているものが全て輝いてみえる。命の尊さが、心の隅までじんじんしみてくる。私は生きている。生かされている。そう思えた時、死に直面することで、なお強く生きたいと願う心のはずみが生まれるのだと気付いた。アルシーアもリビィにそう望んだに違いない。命の申し送りは、いつも深い悲しみの中から生まれるのかもしれない。自分の命にたどり着くまで、延々と続いた命が、今の私の命になった。幸せに、健やかにと願われた命だ。こんなにも重く、愛しいものだったのかと、今さらながらに思う。あたり前のように生きてきた時間を、恥ずかしく思う。
アルシーアの命の重さと、リビィの生き方。私の身近な人達の死と、私を見守ってくれる人達の温かな目。たくさんの命の温もりが、命を育くむ。それが、この世の中を造りあげた全てなのだろう。
一つの命の重さを、こんなにも考えることができた。こんな大切な機会にめぐり会えた私は、これから歩いていく道の中でも、負けないで自分を見失わないでいようと思う。
リビィが自分の命を見つけられたように。
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